台湾で一番行きたかった場所、高雄にある烏山頭ダムへ行ってきました。
ダムの形はまるで蒼いさんごのように見えるため「珊瑚潭」と名づけられています。
ダムは1930年の完成当時に東洋一の規模を誇るもので、烏山頭ダム建設による灌漑整備
によりダム周辺は台湾最大の穀倉地帯になりました。当時作物が取れなかった不毛の土
地から、今では沢山の穀物が収穫でき、お米は年に2回とれるそうです。
台湾で尊敬される日本人の八田與一は、台湾の教科書に載るほど台湾の人々に尊敬され
ているそうです。
彼の成し得たことを通して、日本は台湾の開発と近代化に、正面から取り組んでいたこ
とを知りました。
50年間台湾で近代化に取り組んできた日本人は当時先住民だった台湾の人達を、医者や
弁護士などエリートに育てていきました。
未開発の土地と先住民を開拓開発する大変さはどのようなものだったのかは計り知れま
せん。
ダムの建設中、落盤事故などで134人が犠牲となったそうです。
その慰霊碑には、八田の強い希望により、全員の名前が日本人と台湾人を区別すること
なく、亡くなった順番で彫られているそうです。
そのことからいかに八田が現地の台湾の人も大切にしてきているのかがわかります。
そんな中、八田の死は決して幸せな死とは言えませんでした。
太平洋戦争中の昭和17年、フィリピンの綿作灌漑調査を命じられた八田は、「大洋丸」
に乗船して五島列島南方を航行中、アメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けて船が沈没し
不慮の死を遂げます。
そして3年後の昭和20年8月、敗戦を迎えて、日本人は台湾から去ることになります。
50年間愛情を持って台湾を近代化させてきた日本人にとって、台湾を手放すことがど
のぐらい悔しかったことなのか。
その悔しさを身をもって体現したのが八田與一の妻・外代樹です。
夫の死から3年後、日本が敗戦した後に、夫の後を追うように喪服を着て烏山頭ダムの
放水路に身を投げました。
彼女が生前使用していたもので珊瑚の帯留が残されていました。
夫が残したものをいつまでも後世へ伝えていきたい。そんな強い想いを感じました。
今でも美しいダムの景観をみて、八田さんと奥さんが大切に築いてきた日本の精
神に感動しました。
台湾を訪れて、当時開拓をしていた先人の日本人からのメッセージを沢山感じました。
私たち日本人は深く受け止めていく必要があると思います。
今回、烏山頭ダムを通して、台湾の人の心とひとつになり、開発開拓をしてきた日本
人・八田與一が残したものから、私が知らない日本、日本人と出会うことができまし
た。
この意思を引き継いで私たち日本人がどのように生きていくべきか、考えていく良いき
っかけになりました。